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ふるさとの会文章部会 山科人 編
(ふるさとの良さを活かしたまちづくりを進める会 文章部会 部員)

山口良治先生の思い出
この5月29日に山口良治先生が亡くなった。83歳だった。
私もかつてラグビーをやっていた。強いチームではなく、学生時代はずっとBリーグであった。関西学生リーグではA・B・Cと3部制で、A、Bリーグは各6チームずつ、Cリーグは4ブロックであったか。シーズンの終わりに入れ替え戦があり、いったんcリーグに転落するとなかなかBリーグには上がれない状況で、優勝はおろかずっとこのままBリーグに残れるか、というのが一番の課題である、そんな弱小チームに所属していた。
西京極球技場での社会人リーグの試合をよく見に行ったものである。その中でも京都市役所は京都市民ということでもあり、応援したものだ。特に山口選手は試合中よくパントキックを蹴っていた。ところが、われわれ学生Bリーグの試合とは違って、ボールがなかなか落ちて来ないのである。それだけ高いキックだった。「さすが全日本」弱小チームの一員にはあこがれの選手であった。
花園ラグビー場は芝生の第一グラウンドとその横に土の第2グラウンドがある。Aリーグは有料試合で、もちろん第一グラウンド。そしてわれわれはいつも土のグラウンドで、「いつかはあのコケても痛くないグラウンドで試合をしたいなあ」と思い続けていた。
ところが、花園での試合終了後は同じ風呂を使えるのであった。浴槽は2つあって、隣で社会人Aリーグの市役所チームの連中のにぎやかな声が聞こえる。「三好」とか「小池」といういずれも市役所の有名選手を呼び捨てにしているのを、すっかり委縮した面持ちで湯船につかっていたものだった。
卒業してからしばらくして教員クラブに入ることになった。社会人リーグである。「大阪教員クラブ」はBリーグで、1年間在籍した。菅平での夏合宿にも参加、この時は関東からも色んなチームが来ており、あの早稲田大学(二軍であったが)とも試合をした。全日本の有名選手が試合を見に来ていて試合のプレーよりも緊張した。
次の年は京都教員クラブでCリーグのゆるいクラブであった。当然学校の先生ばかりであったが、小学校から高校までの先生で構成され、色んな選手がいた。当時、伏見工業高校の教員をしていた山口先生もたまに練習や試合に出ることもあった。まさかあのあこがれの山口選手と同じチームになるとは思いもしなかった。
テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』にもあった、学校が一番荒れているときだったので、教員クラブに関わることは不可能だったに違いない。ラグビーよりも生徒指導の方が大変だったろう。京都で常勝のチームになり、後継のコーチや指導陣が増えてきてからよく参加されるようになった。NHKの『プロジェクトX』で放送されてからは知らない人はいない有名人であった。
教員クラブでの飲み会に行ったとき、仲居さんがすっかり舞い上がってしまっていた。 (NHK出版より)
新しい短パンを買いにスポーツ品の店に行くと、「山口先生の短パンはO3(オースリーOOO)でっせ」と店主に言われたことがあった。自分の買ったのはO2(OO)で、腿の太さが一回り大きいのであった。ゴールキックするときにかがむ山口選手の腿は確かに太い筋肉のかたまりであった。
伏見工業との合同練習をする機会があった。試合形式であったが、相手は高校生といえども体は一回りでかい選手ばかりで、ラインアウトのとき対面のやたらと目立つ選手がいた。その後、同志社大学、神戸製鋼で活躍した元全日本の大八木選手であった。
交通の不便な吉祥院グラウンドで試合が終わった後、何回か桂駅の方へ山口さんを車で送ったことがあった。試合後、東向日に学校があり、離れていたのに、なぜか私の車に乗せてくれ、とよく言われた。乗るときにコーラだったか、缶ジュースを一本いただいた。試合後はのどが渇くのですぐに飲み終わる。飲んだ後、私の空き缶を取り上げ、窓から草っ原に放り投げる場面に出くわしたことがある。「元全日本のあの山口さんでもこんなことするんや」と思った。
試合によく奥さんと娘さん二人を連れて来られていた。和歌山教員との試合が終わった後、かっこよく家族を連れて特急(有料)で先に出発したのに、難波駅で大して到着時間がかわらず、みんなで笑ったことがあった。なごやかな家族のようすを見たのであった。
忘れられない試合のシーンが脳裏に焼き付いている。花園ラグビー場での試合である。試合はキックオフで始められるが、トライを決められると次の攻撃はドロップキックから再開される。一旦ボールを地面に落とし跳ね返ったときにキックするもので、タイミングや蹴る角度も難しくなかなか安定しない。キックと同時に攻撃側のフォワードが一列に並んでダッシュするのだが、そのとき山口さんと目が合い、思わず手を挙げた。そしてキック。「もらうのは自分です」というのが伝わったのだろうか、敵陣向かって走る自分の胸に山口さんの蹴ったボールがすっぽりと飛び込んできたのだ。敵がキャッチするのが普通である。奇跡みたいな場面であった。普通のキックではない、不安定なドロップキックでしかも手を挙げた味方選手にめがけて蹴ることはまずできない。敵も驚いたのだろう。ボールを持ったまま何人かの敵選手を振り切り独走した。わずかの距離であったかもしれない。無我夢中で憶えていない。空を飛ぶような気持ちで走ったのであった。近くで自分の名前を呼びながら走ってくる山口さんの声がした。そのままトライしたらすごかったが、何メートルか先でタックルされてしまった。その試合は勝ったのか、何というチームであったのかすら憶えていない。帰りにみんなで鶴橋の焼肉を食いに行ったような気もするが、どうだったろうか。
この試合の後、いろんな機会(主に飲み会)で山口さんと話すことがあった。そのたびに「花園でキックオフのボールをダイレクトキャッチして独走したのはすごかったなあ」と懐かしそうに言ってくれた。国際試合をはじめたくさんの試合をこなしてきたはずの山口さんにとっても忘れられない印象的な試合の名場面だったのだろう。
教員を退職した後「スポーツ振興室長」なる肩書を門川市長からもらって、地域での運動会巡りをされていた。公用車に乗って各地区を回るのだが、テレビなどではおなじみの有名人で、地元の小学校に来たこともあった。あいさつをすると、わざわざ握手をしに私のテントまで来てくれたが、町内会の人に「山口先生を知ってるの?」と聞かれた。かつて一緒のチームだったことはまさか知るはずもないだろう。
ラグビーをやっていたころは苦しいことばかりであったが、亡くなられた山口先生の訃報を聞いて、ご本人には失礼だが、楽しい思い出がたくさんよみがえってきたのだった。ご冥福を祈りたい。
(山科人 2026年6月23日)
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