| 鏡山次郎HP |
ふるさとの会文章部会 鏡山次郎 編
(ふるさとの良さを活かしたまちづくりを進める会 文章部会 部員)

写真は本文とは直接関係がありません
“他人事”だけでいいのか?
今年の始め頃だったと思うが、フェイスブックをみていると、ある新聞記事の写真が掲載されているのが目に止まった。誰が発信したのか、どこの新聞で、いつの記事かもわからない。ただ読んでみて、重たい気分に陥ってしまった。誰かが「人生相談」のようなものに相談されたのであろう。内容は、次のようである。
| 何もかもただ面倒くさい 人間・男・50代。ただ、ただ、毎日が面倒くさい。 口から出る言葉は、嫌だ、面倒くさい、疲れる。それでも腹は減る。食べてしまう。食べるのは、パンとバナナ、時々、納豆、豆腐。 昨年はひどい腹痛で救急で運ばれた。痛いことは嫌だ。苦しいことは、もうこりごりだ。 自分で死ぬのは苦しいだろう。それに、そうする力もなく、ただ、それすら面倒くさい、と。 人間も地球も、もうこりごり。3000年眠りたい。3000年後の世界を見てみたいと考えた時もあったが、今は、ただ、ただ、毎日をやり過ごして、ただ食って寝るだけ。 地球に、自分の体に大隕石(いんせき)でも落ちて、すべてが終わりになればよいと、考えながら眠りに就く毎日。 何を相談しているのかもわからない。こんな人間。このハガキも投げやりの勢いで、ようやく出す。死ぬこともできず、ただ、ただ、やり過ごす毎日。 (青森・A男) |
多くの人は、この投稿を読んで「この人は怠け者だ」「自業自得だ」「自分には関係ない」と思うかも知れない。しかし、私にはひっかかるものがある。
私は、この投稿者の人物像や背景を想像して考えてみた。
「人間・男・50代」とある。50代の男性というのは、ちょうど「就職氷河期」まっただ中で、平成10年(1998)の「規制緩和」で、就職難に加えて、非正規雇用が大幅に拡大され、たとえ仕事についても満足な給料が出ず、若者の貧困化が急速に広がった時期でもある。この人は、就職できなかったのだろうか、文面から想像すると仕事に就いているようには思えない。若い頃から仕事を通じて、人生に希望を持つことができない状況が続いていたのかも知れない。
また「食べるのは、パンとバナナ、時々、納豆、豆腐。」とある。このメニューを見てピン!とくる人は、洞察力のある人である。主食と副食で栄養があり、調理のいらない食べ物で、しかも最も安価な食品を探すとすれば、だいたいこうした食品に行き着く。たぶん独身で、一人住まいなのだろう。このメニューだけからでは決定的なことは言いがたいが、背景に「貧困」の気配を強く感じる。
「昨年はひどい腹痛で救急で運ばれた。痛いことは嫌だ。苦しいことは、もうこりごりだ。」ともある。腹痛の原因はわからないが、通常、医療は「かかりつけ医」と「病院」に手分けして診療されていることが多いので、彼は日常的には「かかりつけ医」などにかかっていない可能性もある。呼吸や血流、外的傷害などで命に関わる場合などは、むろん救急車の世話になることが必要だが、腹痛の場合は腸閉塞など特別な場合を除いて、救急車の世話になることは少ないから、彼にとってはやむに止まれぬ対応だったのだろう。この背景にも貧困があるかどうかはわからないが、彼の本心の根のところでは、やはり「生きたい」と思ってることはわかる。「死にたい」と思っている人ならば、救急車などは呼ばないからである。
「自分で死ぬのは苦しいだろう。それに、そうする力もなく、ただ、それすら面倒くさい」と、彼は、自らの心身から「生きるエネルギー」が大きく失われていることを吐露している。人には抗しがたい困難に面した時、自分の体から「生気(せいき)」が抜けていくのを感じて、力が出ないことがあるが、彼はそうした状態が続いているのだろうか。
人はこれを「怠け」というかも知れないが、私は「怠け」とは違うものを感じている。人間が内的な「生きるエネルギー」を失えば、こういう状況に陥るのである。
また、「人間も地球も、もうこりごり」「今は、ただ、ただ、毎日をやり過ごして、ただ食って寝るだけ」「地球に、自分の体に大隕石(いんせき)でも落ちて、すべてが終わりになればよい」と、社会や人間に対する深い絶望と、「人生、どうにでもなれ」という自らへの失望とを語っている。
この「深い絶望」は、どこから来たのだろう。私は、人生の中で幾重にもわたって、彼の心から「人生への希望」が奪われ、「希望へのプロセスから疎外」されてきたことが、彼をここまで追い詰めたように感じる。社会は、彼に生きる希望を与えなかったのではないか。そればかりか、それを「怠け」「働かない」などの「自己責任」に帰してしまい、彼自身も社会のそうした考えから、自己を否定し、自暴自棄に陥ったのではないだろうか。
ただ、この投稿を丁寧に読んでいくと、投稿者は自分の本心をありのままに、素直に表現していることがわかる。彼は、結構、正直でまじめな人間ではないのだろうか。
この投稿に、社会はどう応えるべきなのだろう。座り込んでしまった人間が再び立って歩けるように、「この手につかまったらいいよ。立てるように『よいしょ』と引っ張るから」と、手をさしのべてあげる人間が必要なのではないか。
ここに至るまで、彼に手をさしのべる人がいなかったのだろうか。私は、きっと個人のレベルでは何度かあったのではないかと思う。しかし個人ではできることに限界があるし、現在は人間関係が密な社会では無く、むしろ疎遠な社会なので、気付かない人も多いし、気付いた人も何もしてあげられなかったのかも知れない。
問題は、社会が、一方でそうした社会の中で「生きづらさ」をつくりながら、そこから落ちこぼれて「生活困難」に至った人たちを救う社会システムがないか、あってもきわめて不十分であるという現実があるという点である。
例えば「生活保護」というシステムもあるにはあるが、生活保護基準以下の生活で「生活困難」に至っている人が大きく増えているにも関わらず、受給者の増加は追いついていない。以前、どこかの県の役所で「(不正受給を防ぐとかの名目で)いかに受給希望者が窓口に来ても“ハードルを上げて(厳格にして)”申請を諦めさせるか」がノルマになっている役所もあるという話を聞いたことがある。落ちこぼれる人たちを救う社会システムが貧弱・劣悪なために、多くの社会的弱者が「切り捨て」られているのである。
それでも、この投稿者は、「このハガキも投げやりの勢いで、ようやく出す。」と、半分「どうにでもなれ」と思いつつも、社会に救いを求めている。助けてはもらえないとあきらめつつも、彼はそれでも「助けてくれ!」と社会に叫んでいるのだ。
この記事に対する読者の反応はどうだったのだろう。また相談者がいたとしたら何と答えたのだろう。そしてその後、彼はどうなったのだろうか。私は、それを何も知らない。ただ、誰が投稿したかも知らず、フェイスブックに流れてきただけの情報。そして、記事を読むだけで、何もできない自分がここに存在している。
彼の投稿(ヘルプ)にどう応えるのか。
おそらく多くの人たちは、「他人事」として考えるのだろう。「こんな怠け者は、放っておいたらええんや」として、自分事とは考えないし、当事者として関わらないし、見て見ぬふりするし、「社会の中にはこんな人もいる」と思ってもすぐに忘れるし、ましてや、彼をここまで追い詰めた社会の手綱を、自分も握っていることなど、思いつきもしないだろう。夏目漱石は『草枕』の中で「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。」と語っている。
私自身も含めてかも知れないが、彼に手をさしのべる人がいない社会。スルーしてしまう人々、“微妙な”問題には、自分の気持ちや意見すら表には出さない人たちがつくる社会。責任を持たなくていい立場に自分を置く人たちがつくる社会。
社会的弱者に「自己責任」を押しつける社会は、社会(つまり社会の側にいる自分)には責任は無いとする「無責任社会」でもある。「助けてくれ!」と叫んでも、誰も助けてくれない社会、彼の深い「絶望」は、ここにあるような気がする。
彼は、おそらく自分自身でも原因や経過がわからないまま「こんな人間」になった。そして、社会と自分との関係に目を向けることもなく、「死ぬこともできず、ただ、ただ、やり過ごす毎日」を過ごしながら、「人間も地球も、もうこりごり」と思いながら、人生を終えて行くのであろうか。そんな筋道が見えてくる。
これが私の肉親であったり友人であったとしたら、どうなのだろうか。
私の重たい気分は、晴れることはない。
(鏡山次郎 2026年6月23日)
*本サイト掲載の記事、写真等の無断転用をお断りします。(ふるさとの良さを活かしたまちづくりを進める会)