yamasina wo manabu

(正式名称 山科を学ぶ同好会)




片山墓地


山科の歴史


第7章 清水寺と牛尾山法嚴寺


講師 鏡山次郎

第二節 片山墓地の整備と阿弥陀寺の開基
 


 御陵にある吉祥山阿弥陀寺の寺伝によれば、神亀5年(728)、山階寺跡地の北方にあった墓地への「供養」に高僧行基がやってきます。行基は、奈良興福寺で法相宗を学んでいた道昭の弟子であり、行基自身も寺院は違っても法相宗であったと考えられ、その意味で「山階寺」(後の興福寺)とは、深い関係にあったと言えるでしょう。一説では藤原不比等が依頼したという説(林羅山家口牌)もあります。行基はその墓地の脇に「仮堂(本師堂)」を建てました。その場所が、「片山墓地」であり、現在のJR山科駅近くで、阿弥陀寺等(阿弥陀寺・當麻寺・西念寺)が所有している墓地のことです。

 「御陵天徳町」の名前は、阿弥陀寺の創建と寺域に関係しています。現在の地図を見ると「御陵天徳町」の町域は、JR東海道線と京阪電車京津線が立体交差するあたりを中心として、西側・南側・東側に展開している凹字形をした地域です。また東側には上野寺井町をはさんで「飛地」があり、これは安祥寺川にかかっています。町域のほとんどが住宅地ですが、この町の中央付近に阿弥陀寺があり、「寺西幼稚園」も併設されています。東側に「片山墓地」がありますが、天徳町自身は、そこから北側、JR東海道線や琵琶湖第一疏水を越えて町域が展開しているので、昔の片山墓地は、安祥寺山突端の山腹を南面して広がっていた広い範囲であったと考えられます。おそらくは、琵琶湖疏水建設や東海道線の建設のため、墓地が削られて、現在のような一部だけが残ってい 奈良時代に生きた僧行基(行基菩薩)は、天智7年(668)、河内国大鳥郡(現在の堺市)に生まれ、天武12年(683)15歳で出家、道昭(どうしょう)を師として法相宗に帰依します。道昭は奈良時代に活躍した僧で、白雉4年(653)、遣唐使の一員として入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学んだ僧です。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をしたといいます。斉明6年(660)頃に帰朝し、同時に持ち帰った多くの経論・経典類は、平城京へ遷都後、平城右京の禅院に移され重用されました。飛鳥寺(別称は法興寺、元興寺)の一隅に禅院を建立して住み、日本法相教学の初伝となったと伝えます。晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行っています。文武4年(700)に72歳で没した際、遺命により日本で初めて火葬に付されたといいます(『続日本紀』)。

 僧行基は、この師の下で学問に励み、持統天皇6年(692)、24歳で受戒。はじめ法興寺に住し、のち薬師寺に移ります。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけたとされています。安朱地域の毘沙門堂の前身、護法山出雲寺も、大宝3年(703)に文武天皇の勅願で僧行基によって創建されたと伝わります。

 僧行基は、慶雲2年(705)37歳の時、山を出て民間布教を始めます。おそらく師の道昭に倣(なら)ったものと思われます。

 和銅3年(710)聖武天皇により、平城遷都が行われますと、平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けました。興福寺も法相宗で、後に山科の牛尾山法嚴寺、東山の音羽山清水寺も、その末寺となっています。

 こうして、全国遊行を行った行基でしたが、霊亀3年(717)4月23日、朝廷(元正天皇)より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧されることになります。この時の詔には「いま小僧の行基とその弟子たちは、道路に散らばって、みだりに罪業と福徳のこと(輪廻説に基づく因果応報の説)を説き、徒党を組んで、よくないことを構え、・・・・家々をめぐり、いい加減なことを説き・・・・人民を惑わしている。・・・・今後このようなことがあってはならない。このことを村里に布告し、つとめてこれを禁止せよ」とあります(『続日本紀』・意訳)。
 しかし、多くの民衆の支持を得て、行基は養老6年(722)に、平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていきます。養老7年(723)「三世一身法」が発布されると、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は、それぞれの土地の土豪や農民と利害が一致することとなり、急速に拡大発展し、その声望は急速に各地に高まっていきました。
 こうした中で、寺伝(寺西聴學『阿弥陀寺史』阿弥陀寺所蔵)によれば、神亀5年(728)、行基は、興福寺の前身であった山階寺跡地を訪れ、荒れ果てた墓地を整備し、祀ったと伝えられています。墓所は、安祥寺と現在の阿弥陀寺との中間の位置にあったとされ、「片山墓地」がその場所であったといいます。また、寺伝によれば、その際に「本師堂」として建立された假堂が、阿弥陀寺の発祥の基になり「阿弥陀寺開基の年」とされ、その後、現在地に移転しています。

 この行基の開いた「本師堂」については、阿弥陀寺には数多くの文書の中に片山墓地と阿弥陀寺との関係がふれられ、寺伝として伝わっています。またその他にも『大日本寺院総覧』、『京都府山科町誌』、『山城寺院神社大事典』などにも同様の記載があります。

 ●大正5年(1916)9月5日 堀寿著、堀由蔵編『大日本寺院総覧』(上巻181ページ)」(名著刊行会・1966年復刻)
阿彌陀寺 淨、十八。宇治郡山科村御陵に在り。行基菩薩の開基に係り、本尊阿彌陀佛は同作なり。三昧所は寺の北二町に在り、行基菩薩の開く所。當山葬所の本師堂なり。現住 寺西聴學。

●昭和5年(1930)9月20日、山科町役場『京都府山科町誌』
阿弥陀寺 當寺は大字御陵の地にあり、吉祥山と號し、浄土宗にして、京都知恩院の末であり、寺格は十八等である。行基菩薩の開基に係り、往古は天台比叡山の別院にして、吉祥山無量院阿弥陀寺と號したりしが、中世に至り、知恩院の第十一代圓智和尚が之を浄土宗に改めた。よって和尚を當寺の中興開山となす。境内は五百七坪を有する。本尊阿弥陀如来の像は小松内大臣平重盛の祈念佛と云はれ、恵心僧都の作にして、寶物取調局より美術上優等の作なる旨の鑑査状を付與せられた。 

●下村弘『京都山城寺院神社大事典』平凡社・平成9年(1997)2月19日)
阿弥陀寺 あみだじ 京都市山科区御陵天徳町
 天智天皇陵の南東、旧東海道の北に位置する。山号は吉祥山、浄土系単立寺院。「山州名跡志」は「阿弥陀堂 在二同所北方南向一本尊阿弥陀仏坐像八尺作行基・開基同僧、斯所北二町余ニ葬所三昧アリ、是即行基ノ所レ開、此堂葬所ノ本師堂也」と開基は奈良時代の偕行基と伝える。のち天台宗の別院となっていたが、正平一二年(一三五七)京都知恩院の住持となった円智(読史備要)が、浄土宗に改宗した。 


 その後、僧行基は聖武天皇の奈良東大寺の「大仏建立」に深く協力していくこととなります。天平17年(745)1月21日、聖武天皇は紫(し)香(が)楽(らきの)宮(みや)において、行基を大僧正に任じます(『続日本紀』)。そして、同年から東大寺において、大仏(盧(る)舎(しや)那(な)仏(ぶつ))の制作が開始されます。大仏(盧舎那仏)の完成と開眼供養会は天平勝宝4年(752)に行われますが、しかし、僧行基はその完成を待たず、天平21年(749)2月2日、遷化します。80歳でした。行基が亡くなった時は、釈迦涅槃の時と同じく右脇を下にして眠るが如く逝ったと伝わっています。


(続く) 

       




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